1.1924年(大正13年)開拓部


 1924年(大正13年)、黒沢尻中学が創立。同年、陸上競技部も創部されました。というものの、陸上競技に取り組めるような環境が整っていなかったため、当時の部員でグラウンド作りから始まりました。陸上競技の練習よりも、草刈や石拾いなどのグラウンド整地が活動の中心となっていたため、当時は「陸上競技部」ではなく、「開拓部」という呼び名で活動していました。ちなみにその時の先輩方のお陰で当時としては県下でも珍しい300mトラックが完成しましたが、その場所は現在の場所とは違い、野球部グラウンドの場所に完成しました。野球部が活動できているのは、当時の開拓部の皆様のおかげであるとも言えるでしょう。

 ちなみに、この300mトラックは戦時中に2度、畑に変えられています。食糧難のため、穀物の栽培が必要となり、そうせざるを得なかった背景がそこにはありました。もちろん苦労して作った手作りのグラウンドであったため反対する方も存在したようですが、戦時中は陸上競技に取り組むことが出来ない状況であったのも事実でグラウンドの役割を果たすこともできていなく、泣く泣くグラウンドを一時的に畑にしたということです。畑に変えられたグラウンドでは主に大豆が栽培されたのですが、その行き先は当時本校に勤めていた学校教員の懐へと入っていったそうです。

2.黒沢尻北高・盛岡第一高対校戦


 創部してグラウンドも完成し、開拓部から陸上競技部になって間もなく、本校の先輩方は県下最強陸上競技部の称号を得るために、当時ナンバー1であった盛岡中学(現:盛岡一高)に対校戦を挑みました。盛岡中は本校の挑戦状を正面から受け入れ、対校戦が行われることとなりました。会場は開拓部の手によって300mトラックが整った本校グラウンドで第1回目の対校戦か開催されました。1928年(昭和3年)5月27日のことです。本校は全校応援で盛岡中学を迎えました。その応援があってか当時県下無敵と称された盛岡中学には圧勝しました。具体的には三段跳以外の種目は、全て本校が1位をとるという結果でした。その後対校戦は戦時中に一時中断されましたが、毎年1度開催され、平成29年現在では83回目が開催されています。通算成績は、本校56勝・一高27勝となっております。 

3.伝統の「K」ユニフォーム


 本校の現在のユニフォームは白地に「K」のマークが入った、伝統と歴史を感じさせるものとなっております。箱根駅伝に出場するチームのユニフォームに雰囲気が似通っていて、全国的に見ても特徴のあるユニフォームだと感じています。そのユニフォームですが、男女とも上は白地に黒の「K」マークが入っています。下は男子は白地に赤いライン、女子はブルー一色となっています。男子のユニフォームは三代目、女子は創部以来同じものとなっています。男子のユニフォームの初代は、故:渡邉初郎氏が書き残した著書に「朝日のマークが入ったもの」と記されておりますが、現在その現物を確認することができておりません。2代目のユニフォームは紺地に白色で「K」のマークが入ったものであり、本校の同窓会館に寄贈され展示されております。

  現在の3代目のユニフォームの完成は、2代目のものに大きく関わっています。まず2代目のユニフォームがなぜ紺地に白色の「K」マークが入ったものになったのかを説明します。2代目のユニフォームは、盛岡中学のユニフォームを意識して作られました。盛岡中学のユニフォームは現在のものと同じ、エン地に白色で「M」の文字が記されています。当時の盛岡中学の陸上競技部の顧問の先生が、早稲田大学陸上競技部出身で大学のユニフォームを真似て作ったそうです。盛岡中学に対抗心の強かった本校はそのユニフォームを意識して、紺地に白色の「K」のマークのものをデザインしました。ところが競技を重ねるにつれて、盛岡中と黒中のユニフォームが遠くから見ると区別がつきにくいという話が出てきて、後からユニフォームを作った本校がデザインを変えることとなりました。ユニフォームの配色を逆にしたのです。紺地に白の「K」から白地に黒の「K」という現在のものとなり、遠くからでも盛中とはっきり区別することができました。ちなみに、パンツの方は最初は真っ白のもでした。しかし、オリンピック(いつのオリンピックかは忘れました)のときに、日本のユニフォームが白地に赤のラインが入っていて、盛岡中を倒して県下でトップとなったことを機に、日本のトップを狙おうという意味合いで、オリンピックのユニフォームを真似て赤いラインを入れたとのことでした。女子は学校カラー「紫」の布地をパンツに用いようとしましたが、当時その色の布を入手することは困難で現在のブルーになったといいます。 

4.総合優勝とキャプテン


 高校生にとって最大のイベントとなる県高校総体での総合優勝は男子は10回、女子は2回達成しています。この最近の3回の総合優勝に着目してみると、偶然ではあるのですが、そうとも思えないような意外な事実を発見することが出来ました。ここ最近に優勝した年は平成13年になります。その時のキャプテンの名は高橋健二(けんじ)さんでした。その前の総合優勝は平成3年です。その時のキャプテンの名は、高橋憲一(けんいち)さんでした。この時の偉業は、新聞でも大きく取り上げられました。そしてそして、その前の総合優勝を調べてみました。昭和39年に達成しているのですが、なんとなんと、その時のキャプテンの名が高橋健(けん)さんなのです。単なる偶然とは思えなくなってきました。

5.佐藤範美ポール


 インターハイのプログラムには、各種目の歴代優勝者が記されています。第1回名古屋大会(昭和23年)には、男子砲丸投で佐藤範美さんが、同じく棒高跳では高橋謙治さんが優勝し、この年のフィールド優勝も成し遂げています。3年後の石川インターハイ(昭和26年)では、女子走幅跳で澤藤延子さんが優勝しています。第1回大会で砲丸投で優勝した佐藤さんの記録は、12m64。この記録を岩手インターハイの優勝選手高、校旗掲揚ポール高さが決定されました。このポールは「佐藤範美ポール」と名づけられています。このポールは、北上陸上競技場の第4コーナー(100mスタートライン後方)に建っています。ポールの付け根には、そのポールの記念碑が建てられておりますので、ぜひ一度ご覧になっていただきたいと思います。


※黒北陸上部雑学は高橋義柄氏(63回生)が作成したデータを元にしています。